「自分以外の大切な人に大切な何かを残して死ぬ」。これが俺のミッションステートメント。
今一度自分のミッションステートメントについて考えてみた。
ちなみにミッションステートメントとは、人生における自分の信念みたいなもの。
ミッション・ステートメントは、あなたの人生がどういうものなのかを表す信念やモットーのようなものです。それは人生の構想図であり、人生という旅をするための地図ともいえるでしょう。
第二の習慣:目的を持って始める ミッション・ステートメントを作成する|フランクリン・プランナー
人生の中で成し遂げたい夢や目標も、このミッションステートメントから生まれてくるのが自然。
だから人生における夢や目標が曖昧な自分は、まずはミッションステートメントを定義してみようと思った。
自分は人間であり、生物だ。
生物である以上、生物としてのミッションステートメントから外れるわけにはいかない。
生物のミッションステートメント(ここでは目的だが)は、ずばり子孫繁栄。
ただ単に子供を産むとかだけではなく、子供たちが豊かに暮らしていけるように何かを残していきたいと思った。
究極的には人間が死ぬ時は、「何かを残して死ぬ」か、「何も残さずに死ぬか」の2通りに分けられると思う。
その人自身が楽しい時間を過ごしたとしても最終的には死ぬのだから、何も残さなかったらそこに生物としての意味はないと思う。
この何かを残すというのは何も有形のものだけではなく、例えば誰かの中にある自分との楽しい思い出だったり記憶だってそうだ。
このブログの一番最初に書いた記事では、「あらゆるものの終わり」についての企画展の内容を書いた。
そこでは「私とは何か?」という問いに対して印象的だった言葉がある。
それは「私とは、周りの人達の記憶だ」ということ。
自分以外の何かに自分の記憶を残せずに死んでいくのなら、生きていないのと同じではないだろうか。
自分はいつかは死んで何もかも無くなるのだから、今までやってきたことが無駄にならないためには他の何かに自分を残しておかないといけない。
自分がXXXをしたいからXXXをするというのは、自分の中で閉じられるものだったらあまり意味がないということ。
「オリンピックで金メダルをとる」っていうのは、その目標にひたむきに取り組んでいる自分の姿が周囲に感動を与えるので十分素晴らしい目標だし、自己満で周りの役に立たない資格をとるっていうのは無駄だと考える。
ブログを発信するということは、WWWという仕組みがなくならない限りウェブ上のどこかに残って誰かの目に止まり続ける(可能性がある)から意味のあることだと思う。
よく、今自分のやりたいことは自分自身のやりたいことではなく、他人が考えるやりたいことになってないだろうか?なんて言われるが、それは当たり前かも。
だって人は生物なんだから、子孫繁栄のために他人に対して何かを残さないと意味がないから。
XXXさんが幸せだったらそれでいい、それが自分の幸せ。これってある意味生物として最も正直な生き方なのかもしれない。
人は生物である以上、何かを残すために生きることが、人にとって精一杯できることの限界だと思う。
ただ偉人のように広い範囲に自分を残すなんて大それたことを考えなくてもいいと思う。
周りの大切な人たちに何かを残せるだけで、十分自分の人生は意味があったと思うだろう。
だからこれからの自分の行動基盤は、
「いかに多くの人に、意味のあることを深く残せるか?」
ということになりそうだ。
しばらくはこの命題に対して深く掘り下げていこうと思う。