脳内いんすとーる

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【読書ノート】「やりたいこと」がわからない人たちへ

こんにちは、Soda(@soda_SE)です。

読了時間:6時間13分

表題の通り、やりたいことが分からない自分が手に取った本。
こういう本を読んだだけで、やりたいことが見つかるということはもちろん無いが(ただ少しは期待してしまう...)、そのヒントは充分もらいました。

昔は、多くの人たちには、やるべきことが最初から運命付けられていた。本人が選ぶという自由裁量の余地はほとんど無かった。自分の家をまもり、地区をまもり、村をまもる。せいぜいよくて、村に学校を建て、子どもたちを教育し、子どもたちのために財産を残して死んでいく。これが多くの人たちの生きたさまだった。
しかし、このようないわば「与えられた」人生がみすぼらしい、充実感のない生き方だった、といえるだろうか?そうではない。そういう生き方ほど立派な生き方と認められたし、そういう人たちに社会の尊敬も集まったのである。
→昔は一般的に上記のような考え方だった。大事なのはあくまで「自分が」充実した人生だったといえるかどうかだと思う。が、そこに時代の考えが干渉することはしばしばある。おそらく生きる時代によっても、自分がやりたいことというのは変わるのだろう。外部環境に依存しているなら、自分の真のやりたいことではないという考えもあるかもしれないが、自分と存在は、そもそも外部環境から形成されるものだと思っている。すなわち、自分のやりたいことが外部環境に依存していても、それは本当に自分のやりたいことだと言えると思っている。

やりたいことを求めるだけで、人生が終わる人がいる。
→グサッと来た。こんな人生は嫌だ。

「やりたいことがわからない」という現状不満からは、一面では、この現状を打破しても、もっとやりがいのある仕事や生活を送りたいという積極的なエネルギーがでてくることがある。
ところが、「やりたいことがわからない」という人の多くには、とりあえずは、いまの人生を充実して生きよう、いまの仕事に懸命になろう、そして、そこから少しでも前進しよう、また自分の引き継いだものをすこしでも発展させていこう、という前向きな心性を見出すことが出来ないのである。
このいまの「自分」を充実させ、変えることに関心が向かず、ただ自分の人生を、別な場所、別な条件に「ずらす」ことを求めている。だから、実状は、ただ現状に不満をもち、現状に積極的に関わらず、現状にぶら下がりつつ「放棄」する、という生き方に終始するのだ。
→はっとさせられた。今自分の与えられた環境に対してやりがいを見出す取り組みをしているかといわれると、とまどってしまう。前者のエネルギーはもっていると思う。その為にやりたいこと探しをする取組み(自分年表を作成する、情報を収集をするなど)を行っているし、やりたいことを発見する為の資産(お金とか英語の勉強とか)を行ったりしている。ただ、どちらかというと未来に比重がかかりすぎているのかもしれない。未来に投資しつつも、「いま」を充実させる取組みを行う必要があると思った。いまの仕事をもの凄く充実させる、いまの家庭をもの凄く充実させる、今の自分をもの凄く充実させるには?を考えることをTodoに記載。

選択の自由というのは、自己責任で選択しなければならないという必然性を背後に抱えているということなのだ。何を選んでもいいというのは、選ばなくてもいい自由を意味しない。自己責任で何かひとつを選ばなければならない、というハードルがあるのだ。
かつては、「運命」によって仕方なく背負わされたものが、現在は自己選択、自己責任で背負い込むということだ。だから、不満を他社に、運命に向けることは出来ない。たとえ何であろうと、自分が選んだものをひとまずは肯定し、情熱を傾けて生きることがベターである、という幸福感や人生観が必要になってくる。
→先の話と被るが、今まで選択してきたものが自分を形成している。その選択が後に後悔する選択であったとしても、その選択が自分を作ってきたことは確か。その自分をひとまずは肯定し、充実させるという取組みが必要。

人は、誰でもなれるものには魅力を感じない。
→反対に、一部の限られた人がなれるものには魅力を感じるということ。例えば医者とか?多分みんなかっこいいとかなりたい!とか思うのだろう。だが、これは人の性質から来るものであって、例えば医者が誰でもなれるような時代だったら、人は医者に魅力を感じないだろうしやりたいことだとも感じないのだろう。自分の本当にやりたいことを探すには、そういったまやかしを排除する必要がある。

自分のなりたいものを、みんながなりたいと思うものから少し遠ざけてみると、あんがい簡単に見つかるのではないだろうか。かつてみんながやりたがったが、現在はそうではなくなったものに目を留めると、すっと手に入ることがある。
→先の話の逆だが、普段魅力に感じていないことでもやってみたら魅力的だったということがあるということ。食わず嫌いせずに何でもやってみなってことかな。

夢をもたず、それを実現する努力をせず、自分の出来そうなところだけを選んで、不満を持ちながら生きるよりずっといい。
→現状の不満を解消する為には行動あるのみか。

私は、どういうわけか、志は高くはなかったが、両親や身内、学校の先生や友人を、自分の「目標」にしたことはなかった。身の丈を狭めていきたくなかったからだ。それが、いい結果を生んできたのかどうか分からない。しかし、少なくとも、自縄自縛という弊害だけは免れ得たのではないだろうか。
→自分も著者と同様に周りの人を目標にしたことがない。というより、誰かを目標にしたことがない。理由は、もっと高みを目指したいから。自分の手の届く範囲の世界で終わりたくないからという思いがある。

悩むことは厄介だが、少しもつまらないことではない。問題は、悩むことから抜け出ようとするかどうかだ。

私の流儀は、「いま、わかっていること」、「これから、わかりそうなこと」を一つずつ取り出してゆくことだ。

「やりたいことがわからない」という人にまず勧めたいのは、その「わからない」という言葉を発することを止めることだ。
→分からないという言葉をただ羅列するだけでは、一向に悩みから抜け出ることは出来ない。悩みを細分化し、整理し、一つずつ課題を解決していくことが大事なのは、ビジネスでもプライベートでも同様。(自分はプライベートの方でこういった思考がしばしば欠落するので注意する)

でも、「日本の最初の天皇の名は?」と聞かれて、わからなければ、「わからない」という他ないではないか、というかもしれない。しかし、理屈めくかもしれないが、正しくは、こういう場合、「知らない」であって、「わからない」ではない。「無知」であって、「無理解」ではないのだ。「知る」と「わかる」は同じではないのだ。
→自分も「知らない」と「わからない」の区別を曖昧にしてしまうことがあると思う。この2つのことを区別することは重要だとわかった。「知らない」なら調べれば解決するが、「わからない」なら調べるだけではすまない。

できないという人に厳命したいのは、「いま、自分は何ができるか」を書き出すことだ。けっして、「自分は何ができないか?」ではない。その上で、「自分のしたいこと」を書き出してみたらいい。したいことが、できることの延長線上にあると思えば、それが、どんなに満足のいかないものだとはいえ、ひとまずは君の人生メニューになる。
→できることの延長上にやりたいことがあるのは稀だと思うが。

目の前にあるものをあえて拾おうとしない。それが人間に共通する性癖である。遠くにあるもの、自分の経験の中にないものに憧れ、チャレンジしようとする。だから、どうしても、「やりたいこと」を身近から探し出すことに躊躇するのだ。
しかし、自分の近くにあるものを、無視し、捨てて顧みないという「現実」軽視に落ち込ませる。

手近なものを慈しんでみよう。光輝くに違いない。
→先の話と被るが、身近なものには魅力を感じないため、やりたいことを見出す機会が少ない。身近なものにもより意識を向けるようにしよう。

実をいえば、「やりたいこと」が本当の意味で見つかるのは、人生の半ばをすぎてからなのである。存分に「後悔」できるだけの経験を経た後なのである。悔やむだけでははじまらない。半生をバネにして、出発するのだ。
→後悔からやりたいことが見つかる機会もあるのだろう。人生の後悔する選択があったとしても、それが未来につながるならよしとしよう。

いまやっていることにどんなに一生懸命にぶち当たっても、あるいは、一生懸命にぶち当たれば当たる程、これではない「別な何か」を強烈に志向せざるをえなくなる。これも自然の流れだ。
そうすると、おもしろいことに、ある時、フッとある「別な何か」の姿が、水平線上に現れて、どんどん近づいてくる。そして、その鮮明な姿を見せるのだ。これがお前が求めていた「やりたいこと」だよ、と、啓示が下る。
→なるほど。これは現状に全力で取り組むための十分な動機になりうると思った。理想と現状のギャップがより鮮明になることで、やりたいことがより鮮明に見える。現状に全力で取り組んで、理想をより具体的に志向出来るようにしよう。

Thank you for reading♪
 ☆written by Soda(@soda_SE)

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